「自分の強みを活かす」という発想からスタートする就活は、違うと思う。
就活において、よくある質問トップ3のうちのひとつが、
「あなたの強みはなんですか?」
というもの。
でも、これって結構違和感があるよね?ということを最近、考えています。
と、いうのも、とある就活生と話をしている時に、
「自分の強みがわからない」
というような話をしていて。
なるほど。自分の強みってなんだろう?
と、ふと考えた時に、「いや、待てよ」と。
最近、僕らが企業のコンサルとして入っていて、その企業にとって新たな製品や価値を考える際に、「自社の強みはなんだっけ?」という思考からスタートするのは間違っているのだと、気付かされたんですね。
となると、これは個人も就活も同じだなと気付かされたわけです。
就活あるあるなのですが、「自分の強みを考える」という発想。
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
その原点にあるのは「あなたの強みはなんですか?」という質問なのですが、その考え方に陥ると、けっこう危険ですよ、という話。
自分には何が出来て、何が出来ない(あるいは不得意)というメタ認知は大切ですが、「強み発」で思考を始めてしまうと、その強みが活かせる企業や業界はどこだろう?という発想になってしまう。これは割と危険で、日本の就活性あるある「就職に活かすために資格を取る」という発想と同じなんですね。
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
企業に置き換えると割と明確で、SWOT分析は大切ですが、一方で「自社の強みを活かして勝負する」というのは危険。というか、今は通用しないという事です。
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
なぜならば、これだけ色々な技術やノウハウがオープン化している中で、強み発で思考をスタートしている時点で、勝負になりません。
A社:自社の強みを活かして、製品やサービスを開発
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
B社:消費者にとって「めちゃ欲しい!」と言われるものを、あらゆるオープンリソースを集めてでも開発
の2つを比べると、どちらがいいかは明確で、A社は競合起点、B社は消費者起点で思考を始めているという違い。
「差別化」というのは「対競合」の視点であって、「対消費者」ではないという事。もちろん差別化や競合について考えるのは必要ですが、それは割とネクストフェーズなのではないか?と思うのです。シーズ探索という言葉がありますが、ぎりぎり今の時代までで、5年先にその考え方は通用しないのでは。。
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
翻って、就活や面接で「私の強みは!」とか「あなたの強みはなんですか?」という話は、今後いらないでしょと思ったりしています。
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
まして、「わが社の強みは」という話をしている企業は、けっこう時代遅れなんだなあと、今の僕が就活生なら思います。という話。
またまた翻って、個人単位で考えても、「自分の強みを伸ばし」「短所を補う」という発想は、わりと危険だと思っています。違和感を感じていたところはここなんだなあと。強みとか弱みとかは(言葉はあれですが)割とどうでもよくて、メタ認知が大事という前提で、自分と、関わる人をハッピーにすべく
— Yuttie (@zoktotuya) 2018年1月31日
ツイートの引用ばかりで恐縮なのですが、要はそういうことです。
「自分の強みを活かして」という思考からスタートする発想自体が、もはや時代遅れなものなんですね。
勘違いして欲しくないのは、自分の強みを考えることをするなと言っているわけではありません。
企業においても、3C分析はもちろん大事なんだけれども、強み発で考える思考自体が「顧客起点」ではなくて「対競合起点」だということです。
そして、今の時代、その発想はナンセンスですよね、という話です。
今の僕が就活生ならば、
「我が社の強みは、こういうところです!」
と言っているような時代遅れの企業には行きません。
それよりは「私たちの会社は、市場からこれだけ選ばれています」とか「我が社の製品は、こういう理由で、これだけ支持されています」という会社の方が、断然いいのは一目瞭然なわけで。
視点をどこに置き、思考をしているか?
というのは、案外盲点だったりします。
というわけで。
どれだけマーケット起点で物事を捕まえることができるのか。
こと就活において「強みを活かす」というのは、あくまでも会社都合、閉塞的な視点です。
要は「ここの強みを伸ばして、うちの会社のコマになってね」というメッセージです。それが間違っていると言っているわけではなくて。
等価交換として、組織のコマになることは必要でしょう。
頭を使わないのではなくて、その事実をきちんと認識した上で、という僕なりのメッセージです。