くすぶりの炎を燃やし続けるということ。
僕が昔、どんな学生だったのかと聞かれたのですが、なかなかすぐには思い出すことができず、昔のブログを漁ってみました。
ああ、そうか。僕はすごく人付き合いが悪く、愛想も悪い学生時代を生きたなあと思い返すわけです。
今は少しはましになったのか?と言われると、大して変わらない気もする。
多少愛想はよくなった気はしなくもないですが、人付き合いの悪さは今も変わらないし、本質的に人というのはそう簡単に変わるものではないですよね。
僕の学生時代を振り返って見ると、何がそんなに不満だったのかわからないほどに、とにかく自分にも、周りの環境にも嫌気がさしていた。
地方で生まれ育った僕は、その環境にも、その環境で何も考えずに過ごしている周りの大人たちも、そしてその中にいる自分自身も、嫌いでしょうがありませんでした。
今思い返すと若かりしコンプレックスなのだと思うのですが、その時は「場所」という物理的な拘束条件がたまらなく嫌いだったわけです。
実は場所ではなくて、その世界や僕自身が置かれた環境が嫌だったということなのですが、当時はとにかくその場所を抜け出したくて必死でした。
何度か書いていますが、僕の中学・高校の同級生たちの一部はものすごく優秀な人たちでした。
本当に少しでしょうが、今、僕が立っている世界で会うようなズバ抜けた人たちとも遜色ないくらいの逸材もいたと思います。
学校という閉ざされた空間と、狭いコミュニティ。
教師という名前がついた大人は信用できないし、周りの同級生たちもどこか見下している自分がいるわけで、気づけば僕はものすごく人付き合いの悪い、孤独で尖った学生時代を過ごすことになります。
しかし、あの時のあの「くすぶり」というのは確実に僕のエネルギーになっており、何に向けるかもわからなかった僕は、ひたすら自分自身の中にある「何か」を突き詰めるべく、深く深くの方向へと潜っていったと思います。
学問や勉学の根底にあるのは「激しさ」であると知ったのもその頃です。
勉強なんていうのは、優等生の真面目くんがコツコツやっているものというイメージがありますが、本当の意味で学問に打ち込む人というのは、その根っこにあるのは激しさとくすぶり。そして、執念だったりもします。
色で言うとどちらかと言うと黒さをもったそれらは、内側の奥の方でふつふつと燃えている。
この感覚をわかる人というのは、どれくらいいるのでしょうか。
何者かになりたくて、でも、何者にもなれない自分がすごく嫌で。
そんなあの頃の感覚は、大学時代も後半になってくると多少は薄れたりもしましたが、それは僕自身が何者かになるまでは、ずっと残り続ける「くすぶり」なわけです。
僕もまだまだ20代。
時々、こうして自分自身と向き合っていると、そうしたものがあるという手触りを感じ、思い出したりするわけです。
くすぶりの石炭が長く燃え続けることで、そのくすぶりはエネルギーに変わっていきます。
僕自身もその感覚を忘れないようにしたいし、誰かの内側に灯っているその火を、焚きつけることができる存在でありたいなと思うのです。