大人の少年で、僕はありたい。

2017年新卒で、人材業界に就職しました。 趣味は読書と、手紙を書くこと。 大人の少年で、僕はありたい。 好きなものは、雨の日とカフェオレ。

孤独な夜に。

静かな夜。

なんでこれほどまでに、自分自身が苛ついているのかが、わからなくて。

何かに対して怒っているのか。悲しんでいるのか。大きく揺れているなんらかの感情がーーそれは内側にいるもう1人の自分なのだがーー僕自身対して、ものすごく何かを訴えかけている。

いま僕はやるべき何かに追われているわけでもなく、成すべきことを背負っているでもない。にもかかわらず、この焦燥感は一体どこからくるものなのだろう。

 

ふと、この感情に似た感情を抱いていたことがあったなと。

大学に入ってしばらくたった後、そこから2年近くもの間、僕はこの焦燥感を抱えながら生きていた。

当時は、何者にもなれない自分と、高い理想とプライドとの間で揺れている葛藤だと思っていたのですが、今、本当に今となって思い返してみると、実は本質はそこではなかったのかもしれない。

そして大学時代の途中から僕は、自分の居場所を求めて、自分の価値発揮をしてきた。何かに没頭している間は、孤独と、見たくない自分自身から目を背けることができるから。

 

僕の人生の中で。過去の自分を受け入れたことで、進むことができた。

というのは、事実です。

実際、10代の僕自身を受け入れることができたのは大学生になってからで、それも大学2年生の終わり頃から3年生くらいにかけてのこと。

今の僕を築いている、2つの大きなきっかけが、僕の10代にあって。

1つは、中学時代に経験した「才能の壁」との葛藤。

そしてもう1つは、高校時代の「身体を壊した経験」による葛藤です。

 

この2つの大きなもので「僕」という人間を語れるからこそ、僕は前に進むことができたし、就職活動ではこの2つの経験を語ることで、社会から評価されることにつながりました。

一方で、そんな自分自身に対して、嬉しいとか進んでいるとか成長したとか、そんなプラスの感情を抱いことのない僕がいることも事実。

周りから求められることが増えてきた今も、それが自分の存在価値だと思ったことはなく、また就職活動で結果を出したから社会から認められていて、それが自分の承認欲求に繋がった、なんてことも1ミリも思ったことはありません。

言ってしまえば、「あなたたちが見ている僕は、ごく一部の僕であって、なんら僕の本質ではないですよ」くらいにすら思っている僕がいて。

「どうせほとんどの人とは、すれ違いの人生で終わるのだから、本当の人間らしさを見ていなくてもいいだろう」とすら、思えてきてしまう。

そしてそんな自分に対して、何とも思っていない僕がいるからこそ、それが時折どうしようもない気持ちになる。

誰とも深く関わらずに、生きていきたい。

 

先ほどまで、人が集う場にいた僕は、自分の気持ちと身体が分離していることに、薄々気づいていて。

けれど、そんな自分の気持ちをどうすることもできなくて、感情に蓋をして、見ないふりをしてやり過ごしていた。

 

実は僕は、過去の自分を受け入れることなんて、できていなかったんだと。

確かに10代の僕を受け入れることは、できたのかもしれない。

でもそこで、10歳までの幼少期までの自分自身に向き合うことは、しなかった。

否、できなかった。

そして僕は、自分自身の20年間と向き合うことができていると思っていた。

否、思い込んでいた。

今の自分を受け入れることで、次に進める。なんて簡単に言葉にしているけれど、それはそんなに簡単なことではない。

少なくとも僕にとって、それはどうしたらいいか、全く扱いがわからないもの。

 

「人を信じる」ということは、難しい。

少なくとも僕にとって、それは非常に困難なものです。

こうも人と関わることをしている今があるけれど、実はそれは僕のすごく外側の表面的な部分であって、深いところ、内側のところで自己開示をしたこともないし、触れられたくないし、今の僕はものすごく人と距離を置きたい。

と同時に、この20数年間抱えてきた孤独から逃れたい、その孤独を癒したいし癒されたいと思っている自分自身もいて、だからこそどうすればよいのか本当にわからない。

 

「誰と生きていきたいか?」なんて、全くわからないし、実はそれを考えたことは幾度となくあるけれど、答えが出たことは一度だってない。

僕にとって大切なひとって、一体誰なんだろう。

自分のことすら、100%愛せない自分がいるのに。

大切なひと。親。家族。友人。もちろんそうだけれど、別に親や家族とずっと生きていきたいなんて思ったことはないし、共に生きて行く友人なんていない。

そんな僕を冷たい人間だとか、ドライだとか、人はそう言うはずだけれど、そんなことは自分が一番わかっている。

誰かを信じて、深く関わっていくことなんて、今の僕にはすごくハードルの高いことだということです。

恋人なら、それができる気がする。それはわかっているけれど、少なくとも今までの僕には、できなかったし、これから先それができるかなんて、本当にわからない。

自分で自分自身を受け入れて信じることもできない僕がいるのに、さらに誰かの人生に一歩踏み込んでいくなんて。

 

根っこにあるのは、おそらく両親。

直接的な被虐はないけれど、間接的に僕は居場所を失いました。

愛された記憶は確かにあるけれど、同時に僕自身という存在が邪魔なものであったことは事実で、できれば両親とも関わらずに生きていきたいと、幼少期から今に至るまで、ずっとそう思っていました。

もちろん、感謝はしている。そして、大切にも思っている。

そんなことは分かっているのだけれど、それでもなお、深いところに背負っているものは、そう簡単には癒えないし、なくなってはくれないんですね。

 

いま僕は、誰かに信じてもらうという、いままでに経験したことのない出来事を体験し、ものすごく戸惑っています。

HRでもそうだし、プライベートもそう。

人生を賭している人たちの岐路に自分自身が立つことは、僕にはできない。

僕の背景がどうこうとか関係なしに、僕を信じてくれる人がいることが、怖い。

初めての経験だからです。

なぜならば僕はいままで、誰かと深く関わることを避けて生きてきたのですから。

その必要すらなく、これから先の未来にその必要性すら、感じていない。

 

僕のこの態度で、いままでの人生の中で、誰かを傷つけてきたことも事実です。

その事実は僕にとって、すごく痛いものであるし、目を背けたいものでもある。

ちゃんと見て、手にとって、僕自身と織り交ぜていく必要があることは、わかってはいるのだけれど。

 

孤独な夜に。

一つ、僕は、きちんと自分の根っこに向き合うことを、してみます。

夜中の3時から、取り留めのない文章を書いたのだろうか。