大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

模範解答を覚えるのは、子どもの勉強。〜いかに模範解答から離れられるかが、大人の勉強〜

 

先日、後輩に聞かれた質問。

「学生の間の勉強と、就活を含め社会に出てからの勉強って、どう違いますか?」

というもの。

 

僕の答えは、

模範解答を覚えるのが、子どもの勉強。

模範解答からどれだけ離れられるかが、大人の勉強。

とういものです。

 

今までの僕らは、必死で模範解答暗記競争を繰り返してきました。

早い人は小学校や中学校の受験から始まり、高校受験、大学受験を経て、社会と接するまで、さもそれが「正解である」とされる模範解答を覚え続けてきた。

 

特に”優秀である”と言われるエリートたちは、”エリート競争=模範解答暗記競争”だったわけです。

どれだけ多くの模範解答を早く覚え、適切にアウトプットできるか、という競技をしてきた。

 

でも、学生という役割からから、社会人へと役割がシフトしていく際に、完全に勝負する競技が変わります。土俵が変わる、という感覚でしょうか。

その事実に、驚愕してしまう人が多いのも事実で、それは特に優秀であるとされる人たちに多いというのも、僕が大学生活を通して感じたことです。

 

 

1%でもプラスαを生み出す工夫が、感動になる。

仕事をする、というのは、誰かの役に立つことをすることです。

誰かの役に立って、感謝されて、「ありがとう」と言われて、その先にお金をもらうことがある。仕事をするとは、感謝されることです。

 

僕らが何か仕事をする時、その仕事が面白いものであるかとか、つまらないものであるかとか、そういうことは関係ありません。

その仕事をする人が、その仕事をどれだけ面白いものにすることができるか。

 

世の中には、面白い仕事があるわけではなくて、面白い仕事の仕方をする人がいるだけです。

 

仕事は、すべて雑用。一見つまらないし、地味なものの積み重ね。

その雑用に、僕らが命を吹き込むんです。

雑用は、雑にやったら雑になる。でも、僕らが命を吹き込むことで、雑な仕事にはならない。それが人の心を動かすものになるということです。

 

命を吹き込むということは、その人にしかできない工夫をするということ。

資料をつくるのもそう。コピーを取るのもそう。

ひとつひとつに、その人にしかできない工夫をする。

 

仕事というのは、求められるものを100%で打ち返すだけでは感動は生まないし、工夫したことにはならない。

むしろ、100点の模範解答を叫んだのでは、実社会では即退場です。

 

でも、そこに1%でも、相手の期待を上回るものがあれば、それが感動となって相手の心を動かすわけです。

お金は、その1%の感動の部分に生まれる。

 

僕らは今まで、100点満点のテストの範囲でしか生きてこなかった。

模範解答というのは、言うなれば100点の解答です。

でも、実社会に出てからは、100点のテストでは人の感動は生まれない。

101点以上のものを生み出そうと工夫する、DNAを刷り込んでいく、そういったものに人の血が通って心が動かされるわけです。

 

だからこそ、「模範解答からどれだけ離れられるかが大切」になるんです。

 

 

僕が言っているのは、模範解答がダメだということではない。

模範解答は大切。

 

でもそれは、模範解答をアウトプットするために大切なわけではなくて、模範解答から離れたアウトプットをするために、模範解答を知ることは大切です。

その基準を知るために、模範解答は大切なのだと思っています。

 

 

どれだけ人と異なる視点で物事を捉えられるか。

違う枠組みで物事を考え、異なる思考回路でいられるか。

 

確かに、それは難しい。

 

でも、その事実を受容して、考え続けることが大人の勉強なのではないでしょうか。

 

僕もそうでありたい。

ありがとう。

 

 

<追伸>

就職活動も、同じ。

模範解答を覚えてアウトプットするだけの面接は、その他大勢に埋もれて一瞬で忘れ去られます。

いかに、自分ならではの模範解答を作ることができるか。