大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

「雑用力」とはつまり「意味付け力」

雑用という言葉があります。

例えば、誰しもがやりたがらないような地味で目立たない仕事があったとして。

でも本当は、「雑用」という仕事はないんだと思うんです。

ただ単に、雑にやる人と、そうでない人がいるだけなんですね。

 

雑用を、その名の通り雑にやる人と、そうでない人の違いは「意味付け力」、つまりは目の前の地味で目立たない仕事に対して、その取り組みが全体に対しての価値発揮をすることを踏まえて、ちゃんと実行していけるかどうかなのではないでしょうか。

 

ほとんどの仕事は、地味で目立たないことの積み重ねだと思うんです。

華やかなアウトプットなんていうのは、全体のほんの1割にも満たないようなもので、その下支えをしているのは圧倒的に地味な仕事なのではないかと。

資料のコピーや出力も、現場の準備やそのまた準備も、あるいは泥臭いコミュニケーションを重ねていくことだって、言うなれば雑用かもしれません。

でも、それらを実直に実行していけるというのはつまり、自分なりの意味付けがあるわけで。

自分なりの価値づけの仕方はいくらでもあるわけで、仕事の面白さって、そこにあるんだと。

 

その意味付けというのは、ひとつ上司が言葉にすることもあると思います。

「仕事の定義」をするということ。つまりはその仕事の”意味”を定義することですね。

僕のインターンシップ時代の上司が、それがすごくうまくて。

その仕事の定義の仕方は、すごく綺麗な言葉だし(元はコピーライターなので、そうですよね)、本当にその通りの価値発揮だなと。すごく学ばされました。こうやっていくのだなと。

一方で僕は思うのですが、そもそも仕事(の意味)を定義されないと実行していくことができないというのは、つまり定義されてもできないのでは、と。

定義されないとできないというのはつまり、定義してもできないということです。

そもそも実行していける人というのは、定義せずとも実行できる人だと僕は思います。(自分がそうだと言っているわけではありません。念のため)

 

その定義によってもちろんモチベーションは上がるし、意味づけの方向性について自分で確認修正していくこともできる。

でも結局最後は自分自身でいかように意味づけをしていくのかということ。自分自身で定義していかなければ。

それはおそらく一長一短で身につくものではない。

人生の習慣だと思うんです。

ということに気づけた今から、実直にその習慣を積み重ねていくことなのではないでしょうか。

ありがとう。