大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

読書の習慣を身につけることについて 〜本好きな人たちは、自分自身で読むべき本を見つけ出す〜 

 

「本を読む習慣をつけよう」という言葉があります。

ふと思い出したのですが、僕が中学生の時は、国語の授業の冒頭10分間を「読書の時間」として定め、みんなで黙って本を読むという制度がありました。

僕の学校だけだったのか、それとも中学校というのは概ねそういった決まりがあるのかどうかはわかりませんが、おそらく僕の学校の方針だったのでしょう。

あるいは、僕の学校が私立だったゆえ、高校受験がなかったために割と自由に、つまりは先生がある程度の裁量をもって授業を展開できるというのがその大きな理由だったのかもしれません。僕の記憶では、中学2年と3年の国語の授業はやっぱり決まって授業の冒頭10分間は読書の時間でしたから。

 

どうなのでしょう。あの制度は、例えば僕のように本を読むことが好きな生徒にとっては良かったとしても、そうでない生徒ーー例えば「俺は本なんか読むより、携帯でゲームをする方が好きだ」という人も多いはず(実際にいた)ーーにとっては、その10分間という時間の積み重ねによって、読書が嫌いになった人も一定数居たような気がするからです。

読書というのは大抵は、自ら能動的に取り組むものです。

でも、学校の課題に代表される「読書感想文」であったり、あるいはこの「読書をしなければならない時間」によって、つまりは本を読むことを他人に強制されることによって、読書が嫌いになるのではないだろうかと思うんですね。

 

僕自身、中学生の頃というのは社会を、学校を、大人を「疑問の目」で見ていたので、自分が本を読むことは個人的な愉しみとしては良くても、強制されるとたちまち嫌な気分になっていたなあと。(振り返ると、申し訳なかったなと思うこともたくさんあります。)

 

小学校、中学校の頃には「読書レース」なるものがあって、「図書館で本を借りた冊数ランキング」のようなものが教室に貼り出されるのですが、僕にはこれがとても不思議だった。なんで読んだ冊数を競っているのだろう?って。

確かに、本は読まないよりは読んだ方がいいと僕も思います。(結局はどっちでもいい、個人の自由にしたらというのが僕の意見ですが)

若いうちに読書の習慣をつけるための学校側の取り組みだったはずですが、正直にいうと、そんな取り組みでもともと本を読まなかった人が読書の習慣を身につけるとは、到底僕には思えない。

ましてや、どうして「読んだ本の冊数」をランク付けするのか。

 

読書の習慣は、その人が、その人自身のタイミングによって本を手に取ってみて、自ら身につけていくものだと思うからです。

学校というのは大抵の場合ありがたいことに図書館があって、本を読もうと思えば勝手に読むことができるわけですから、放っておいてもいいような気がする。むしろ変に強制するよりは、放っておいた方がよくて、読書の面白さや習慣を示したいのならばまず、周りの大人たちが習慣的に読書をするようにする。それを見たり感じたりしていれば、遅かれ早かれ子どもは勝手に興味を持つのだと思うんです。(持たなかったとしても、別のたのしみがあればいいですしね)

 

読むべき本というようなもの示されることもありましたが、往々にして本好きな人たちというのは、自分自身で読むべき本を見つけ出してくるように思う。

むしろ読書への入り口で「これを読んだらいいよ」と言ってしまうと、その人が興味を持つかもしれない幅の可能性を限定的にしているようで、もったいないなあと思うんです。

 

まあ、いずれにせよ、僕自身で言えばいまこうして文章を書くことが愉しくて、それ以外の時間は本を読むことを愉しめるので。

というようなことを考えつつ、大学の図書館で勉強をしながら、パソコンに向かっています。静かな図書館は好きです。今日は一段と冷え込みますね。

 

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ふと、以前に読んだこの本が頭に浮かびました。

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

確かこの中に「学校について」村上春樹さんが語る章がありましたね。

 

雑文集も好きだなあ。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)