大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

いま0時を回って、日曜から月曜へ日付がかわったところ。

日曜の今日という日、気づけば僕は誰とも一言も言葉を交わすことなく、1日を終えた。

そういう日というのは、意外と快適な1日だったりもして。

起きたい時に起きて、本を読んで、ブログを書いて、音楽をして、眠くなったら寝て、という風に。丸一日誰とも会話らしい会話をしない日というのは、僕の日常の中で時折やってくるもの。少なくとも、夜まで誰とも話さない1日というのは、僕にはすごく近しい存在だったりする。

 

僕が以前から持っている感情の感情に、閉塞感というものがあって。それは、圧倒的な孤独感からくる、感情の蓋が一気に開いて、という類のものではなくて、なんだろう。それよりももっと手前の方にある軽さを持っていて、ずっと前から僕の心に絡みついている。見ないふりをしようと思えば見ないままで過ごせるのだけれども、こうしてふとした時に気づくもので、ひとたびその存在に気づくと、押し付けられるような息苦しさがまとわりついてくる。

朝、シャワーを浴びているときに、浴室の中に閉じ込められているという事実に、どうしようもないほどの閉塞感を感じて、ドアを開けっ放しにして息が通っていく感覚とか、夜自分の部屋にこもって眠りにつこうとした時に、自界の狭さに押しつぶされそうになって、窓を開けっ放しにしたり外を歩いたりして息を吐く、といったことは最近になって割と頻繁に起こること。

いつ頃からだろう。覚えているのは、この閉塞感に似た感情は、僕が高校に上がる頃にはすでに、僕の中に根付いていたということ。それは大学に入る頃も持っていて、ただその小さな感情に気がつかないふりをしていた。というのも目の前のやるべきことに淡々と向き合っているときは、その事実を見なくてもよいわけで、そうやって僕はやるべきことを淡々とこなして、気づけば本当に多様な経験を積んだ自分がここに立っている。

本音として、今僕が立っている場所や見える景色というのは、望んだものではなくて、ただ、目の前のことをこなしていたら、たどり着いた場所であるということ。できることなら、もっと純粋に、そしてひたむきに、生きてみたかった。

 

半端なく不器用な生き方という大枠の中で、僕は器用に生きてきたんだろう、と思う。少なくとも、目の前のやるべきことを要領よくこなすということに関しては、わりと優れている方だと思う。どうして、そういうことが身についたのかは、自分でもよくわからない。

ただ、小学生の時にはすでに、自分でも明らかにわかるくらいに、周りの人よりもはるかに勉強ができたり、大人の期待に応えたりすることが上手だった。何を期待されているのか、どう振る舞えばよいのか、大人という社会の中で自分はどう生きることを求められているのか。それらをまるで手に取るように、僕は知っていた。

中学の中頃には、そんな自分の生き方と社会の意味不明さとの狭間の中で、葛藤に揺れていて、けれどもやっぱり僕にはその生き方を手放すことはできなかった。弱かった。周りが点数を期待するテスト勉強なんて、ぶっちゃけ楽勝だった。評価を期待する人生すらも。いつのまにか、それが僕の価値になっていった。

それは高校に入っても、そして大学受験という、割と大きな人生の一大イベントが迫ってきても、どうしても周りの人ほど真剣にその事実を見つめることは、結局僕にはできなかった。どうしても冷めている自分がいたし、夢中になれるものを探していた。夢中になれる、そんな生き方を。それが自分の居場所になることを、潜在的に知っていたのだろうか。受験勉強のやり方なんて全部知っていたし、高2に上がる頃には、そのやり方なんてとっくに終わっていたのだから。そして、僕はなんで、こんなつまらない生き方をしているのだろうと。そんな自分を、心のどこかで軽蔑している内側の自分がいたりして。ただ、そこから逃れる方法も知らなかったし、そんな勇気なんてなかった。

 

そんなこんなで、気がつけば大学も4年が経とうとしている。これから先も、そんな生き方を続けていくのだろうか、と恐怖にも似た感情を抱くようになったのが、まあ節目節目においてそう思ってはいるのだけれども、最も大きなものを抱えるようになったのは今年になってから。

それはひとえに、来年から社会に足を踏み入れて生きていくという事実が、頭ではなくて本当の意味で問われる局面だったからなんだろうと。

 

何が描きたいのか、よくわからなくなってきたのだけれど、書かずにはいられずに書き始めた最初よりは、胸のつかえが楽になった気がする。うん。

とりとめのない文章を書いて、ごめんなさい。おやすみなさい。