大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

20歳までに読んだ本で、その先の人生の思考のベースが出来上がる。〜触れた言葉によって、使う言葉が決まる〜

 

僕は大学に入った後に気づいたのですが、僕の一人称は口語でも「僕(ぼく)」なんですね。

僕は話をするときに「ぼくは〜〜」という話し方をします。

逆に、大学に入る前は、その一人称で話しているということに、気づきませんでした。

 

話す言葉、そして書く言葉というのは、幼少期から10代にかけて、どんな人と話をして、どんな本を読んで、どんな言葉に触れ続けたのか。というところに大きく依存します。

その中でも僕の場合は特に、本というものに大きく影響を受けました。

 

20歳までに読んだ本で、その先の人生の思考のベースが出来上がります。

 

僕自身の人生を振り返ってみた時、最も多くの本を読んだ時期というのは、10代後半から20歳で大学に入るまでの3〜4年間でした。

当時の僕は、高校2年の夏以降、身体を壊してしまい、学校には行っていません。自ら抱えてしまった病気によって、生活のほぼ全てが自宅で完結していた。

その中でもさらに、自分の部屋という限られた空間の中で、僕はひたすらに本を読み漁りました。

読む言葉、その全てが心の栄養となって、乾いたスポンジが水を吸い続けるように、いくらでも本を読むことができた。

 

同時に僕は「読む」という行為に加え、「思考する」ということの大切さを学んだのも、この時期です。

当時の僕が憧れていた、過去の思想家たちはみな、膨大な量の書物を通して過去の偉人たちから知恵を授かると同時に、それをそのまま飲み込むのではなく、自らの頭によって考え、ーーつまりは咀嚼するということーー自分自身というフィルターを通して新たな価値を、社会に残していました。

 

僕自身の糧として、頭の中にパンパンに詰め込まれた知恵と知識を、一つ一つ丁寧に整理していくこと。考えるという行為をすることによって、詰め込まれた知恵と知識が、自分の血肉となっていく感覚。

僕はそうやって読書を通して思想の海を旅することで、閉ざされた部屋の中から社会を見つめ、行き場のなかったフラストレーションの向かう先としていました。だからこそ、社会に対して憧れを失うことも、自分の未来に対して腐ることもせず、今の僕があるのかなと思っています。

 

「僕(ぼく)」という一人称に影響を与えた本が何かはわからない。

けれど、10代後半のその数年間で受けた影響であることは、間違いない。そしてそれは今の僕の言葉や思考を作っている。

それ以前、僕がどんな言葉を話し、書いていたのかは、実はほとんど覚えていません。一人称として今と同じように「僕(ぼく)」と言っていたのか、あるいは「俺(おれ)」と言っていたのか。今と同様に「私」を一人称として文章を書いていたのか、ということすら、本当に覚えていないんですね。

どんな風に社会が見えていたのかは覚えているけれど、僕自身がどのように社会を捉えていたのかまでは、わからないんです。

もちろん、そもそも当時の僕が社会を如何様かに捉えようとすらしていなかったのかも、しれないのですが。

 

いい言葉との出会いは、いい人生をつくる。

僕も誰かの人生のきっかけとなる、言葉を伝えられる人になりたい。