大人の少年で、僕はありたい。

コンサルのお仕事やっています。 このブログには、自身の経験からくる「大学時代」と「就職活動」、そして10代の頃に知りたかった社会のリアルを書いています。

宮沢賢治『告別』 〜生きる厳しさと、美しさを詠った、僕らへのメッセージ〜

部屋の時計は深夜1時半を回ったところ。

なんとなく眠れない夜で、本を読んでみたり、考え事をしてみたり、という時間を過ごしている中で、気がついたらこうしてパソコンに向かっていて。

 

1人でいるわけではないけれど、ふと孤独になったり、夜になると時々、寂しさでたまらないような気持ちになったり。

自分の心が何を渇望しているのか、この渇いた感覚というのはなんなんだろうとか、一方ですごく濡れている心があったりして、時々自分がわからなくなって。

暗いところへいって、戻ってくるという作業は心地よさと同時に、どこか危険な要素も兼ね備えている。

自分自身の内側の深いところにいって、中にある何かに触れること。そしてそれを言葉にして、連れて帰ってくるという作業は、実は誰しもができるものではないのかもしれないな。なんてことを考えたりします。

 

ふと、以前読んだ宮沢賢治の「告別」という詩が頭の中をよぎったので、こんな夜から本棚の中を漁ってみて、どこかにあると思われる詩集を探してみる。

けれども、頭が回っていないからなのか、あるいは単に僕の部屋に本があふれかえっているからなのか、なかなか見つからなくて、そういえば以前ノートに書き綴ったなと思い出し、そのノートを探してみるけれど、僕の机にノートが多すぎて、どこに書いたか思い出せない。

 

ここまで来て、そうだ、ネットで検索すれば早いということに気がついて、ネットで調べて改めてその詩を読み返してみる。

 

(告別)

おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを

おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは

ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

 

もしもおまへがそれらの音の特性や

立派な無数の順列を

はっきり知って自由にいつでも使へるならば

おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

 

泰西著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがやうに

 

おまへはそのころ

この国にある皮革の鼓器と

竹でつくった管

とをとった

 

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐるものは

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

 

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

 

すべての才や力や材といふものは

ひとにとゞまるものでない

ひとさへひとにとゞまらぬ

 

云はなかったが、

おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

 

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり

きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまへをもう見ない

 

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

 

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

 

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

 

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 

なんと素敵な詩なんだろう。

本当に魂に触れる言葉だなと。

 

この詩を詠った当時の宮沢賢治の背景というのは、検索すればいくらでも出てくるけれど、詩そのものとして、ただ言葉が存在すること自体がすごく美しい。

 

この詩で詠われている、才能、葛藤、孤独、そして生きることの厳しさと美しさ。

そんなものが凝縮されているこの詩は、ひとつ僕の中で大きな何かを作っている。

この詩自体もそうだし、この詩が伝えようとしている”何か”が、僕の中でものすごく共鳴していて、同時にすごく痛い。

 

生きる厳しさと、美しさを詠った、僕らへのメッセージ

この詩で詠われているように、僕らは働くことによって、生活によって、自分自身によって、才能とか、感性とか、そういった大切なものを自ら失っていってしまう。

なぜならおれは

すこしぐらゐの仕事ができて

そいつに腰をかけてるやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

という言葉には、たくさんの人たちへ向けて放った、自分自身へのメッセージが込められているのかもしれない。

 

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌ふのだ

誰かを愛するようになったとき、無数の影と光を音にする。

そして、みんなが遊んでいるときに、その寂しさで音を作るのだと。

孤独と、屈辱と、葛藤とで、歌を歌うのだと。

 

僕には、なぜかその気持ちと感覚が、痛いほどよく分かる。

すごく心がえぐられるような気がする。

 

生きる厳しさと、美しさを詠った、僕らへのメッセージなのかもしれません。

 

 

<追伸>

 この詩が出てくる本が、僕は大好きです。

yuto.hatenadiary.jp

 

  <追伸の追伸>

宮沢賢治の言葉っていいなぁ。

銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

 
読んでおきたいベスト集! 宮沢賢治 (宝島社文庫)

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